ウェブサイト連載「館長のフェイバリットディスク」第2回では、レコード歴史展示館60’sの竹島館長に、ザ・フォーク・クルセイダーズ(以下、フォークル)のレコードと、そこから受けた影響について伺いました。
「帰って来たヨッパライ」の大ヒット、「イムジン河」をめぐる騒動、そしてわずか1年という短いプロ活動期間。フォークルは、数々のヒット曲を残したグループとして知られる一方、アマチュア時代には自分たちでレコードをつくり、自分たちで売り、放送局へ持ち込んで音楽を広めていくという、現在の「インディーズ」にも通じる活動を実践していました。
学生時代の竹島館長は、そんなフォークルの姿に強く惹かれ、自らバンドを結成。12弦ギターやコントラバスを手に演奏活動を始め、やがて自分たちで録音し、テスト盤までつくるようになります。
「聴く」だけだったレコードが、「自分たちも演奏したい、つくってみたい」という衝動へ変わっていく。その経験は、後に竹島館長が音楽をつくる人たちのための「サウンド工房」を立ち上げる原点にもなりました。
今回は、一枚のレコードを入口に、フォークルとの出会いから自主制作の試み、そして「自分たちで音をつくる」という精神が、どのように竹島館長自身の人生につながっていったのかを伺います。

「帰って来たヨッパライ」との出会い
――竹島館長がフォークルを知ったきっかけは、「帰って来たヨッパライ」だったそうですね。
そうですね。大学時代、東京にいた頃です。ラジオからしょっちゅう流れていました。
最初に聴いたときは、やっぱり「なんだ、この歌は」という感じでしたね。声が早回しになっていて、コミックソングのようにも聴こえる。でも、歌詞をよく聴いてみると、単なる面白い歌ではないんです。
当時は自動車がどんどん増えて、交通事故も増えていた時代でした。そういう世の中に対する風刺のようなものも感じました。ただ、そこまで深く受け取って聴いていた人がどれだけいたかは分かりません。表面的には、とにかく面白い歌ですからね。
――当時のフォークソングというと、反戦歌などのイメージもあります。
そうですね。アメリカのモダン・フォークの影響を受けたものもあれば、花や恋愛を歌った日本的なフォークもありました。
その中で、フォークルはちょっと違っていました。特に関西の人たちには、あの面白さや音楽性を分かって支持する人が多かったんじゃないでしょうか。
私自身も、単に「帰って来たヨッパライ」という曲が面白かっただけではなく、フォークルという存在そのものに惹かれていったんです。
「自分たちでレコードをつくる」という発想
――フォークルに惹かれた大きな理由のひとつが、彼らの「自分たちでつくる」という姿勢だったのでしょうか。
そうだと思います。
「帰って来たヨッパライ」は、もともとフォークルがアマチュア時代に自主制作した30センチLP『ハレンチ』に収録されていた曲です。解散記念というか、別れの記念に自分たちでつくったレコードだったんですね。たしか300枚くらいだったと思います。ところが、最初から売れたわけではない。売れ残って、制作費の支払いにも苦労したようです。
それでも彼らは、自分たちでケーブル放送や大阪の放送局などに持ち込んで、「これをかけてください」とお願いして回った。レコード店などにも自分たちで売り込みに行った。
そこがすごいんですよ。今でいう「インディーズ」のようなことを、まだそういう言葉が一般的ではなかった時代に、自分たちでやっていたわけです。
――制作だけでなく、宣伝や販売まで自分たちで行っていた。
そうです。普通なら、レコード会社がつくって、宣伝して、販売するものですよね。でもフォークルは、アマチュアの段階で、自分たちでつくって、自分たちで宣伝して、自分たちで売るところまでやっていた。
私はそれを知ったとき、「アマチュアでも、ここまでできるんだ」と驚きました。
その後、レコード会社から声がかかって、プロとして活動することになる。フォークルの音楽そのものだけではなく、「自分たちでやってみる」という姿勢に、私は強く影響を受けたんだと思います。
フォークルに憧れ、12弦ギターとコントラバスを手に
――楽器にも影響を受けたそうですね。
特に12弦ギターですね。加藤和彦さんが『メンズクラブ』にフォークバンドのメンバー募集を出したという話があって、「12弦ギターとバンジョーを持っています」というようなことを書いていた。当時、12弦ギターなんて、普通には見ない楽器です。「そんなギターがあるのか」と思いました。フォークルはコントラバスも使っていました。それも格好よくてね。それで、友達と一緒に東京のお茶の水で中古のコントラバスを買ったんです。
――かなり大きな楽器ですよね。
大きいですよ(笑)。それをお茶の水から丸ノ内線に乗せて、中野坂上の下宿まで持って帰った。しかもラッシュの時間帯ですよ。周りの人がみんな見ていました。今考えたら、かなり迷惑だったでしょうね(笑)。でも、それくらい欲しかったんです。フォークルが使っている楽器を、自分たちも使ってみたい。それがそのまま、自分たちの音楽をやってみたいという気持ちにつながっていきました。
ギターケースを持って歩くだけで注目された時代
東京では自分たちでバンドをつくって活動していました。富山に帰ってきてからも、休みになると演奏をしていました。プロの公演の前座をやらせてもらったこともあります。当時は、今のようにどこでもライブができるという時代ではありません。ギターケースを持って歩いているだけで、「レコード会社の人なの?」と声をかけられることもあった時代です。それくらい、ギターを持って歩いている若者自体が珍しかったんでしょうね。
富山市の総曲輪通りのイベントで、東京の新宿で行われていた「フォークゲリラ」のような雰囲気を参考にして、フォークの集まりをやったこともあります。みんなで輪になって、誰でも知っているような歌を一緒に歌う。必ずしも反戦歌を歌うというわけではなく、もっと気軽な集まりです。それでも人が集まって、当時は新聞に載ったりもしました。今思えば、音楽を聴くだけではなく、「自分たちで場をつくる」ということも、あの頃に覚えたことなのかもしれません。
レコードから学んだ「演奏の音」
――当時は、どのように曲を覚えていたのでしょうか?
とにかくレコードを聴きました。新譜が出れば買って、何度も何度も聴く。特にバンドで曲をコピーするときは、スタジオ録音よりライブ盤のほうが参考になることが多かったですね。ライブ盤だと、ギターはどう弾いているか、ベースはどう動いているか、それぞれの楽器がどう絡んでいるかが分かりやすいんです。
スタジオ録音だと、後からストリングスが入っていたりして、実際に何人で演奏しているのか分からないこともありますから。楽譜も簡単には手に入らなかったので、耳で聴いて覚える。そうやっているうちに、「この音はどうやって出しているんだろう」と、演奏だけでなく録音そのものにも興味を持つようになりました。
ビートルズなどを聴いていても、録音するトラックが増えていくことで、できることがどんどん広がっているのが分かるんです。「録音」というもの自体が、ひとつの表現なんだと思うようになったんです。
『紀元弐阡年』とフォークルの作品性
フォークルのレコードでは、『紀元弐阡年』も印象に残っています。私の中では、フォークルが残した作品の中で、ひとつのテーマを持ってつくられた、早い時期のコンセプトアルバムという印象があります。「帰って来たヨッパライ」だけではなく、「さすらいのヨッパライ」も入っている。「帰って来たヨッパライ」に対するアンサーソングのようにも聴こえます。もちろん、レコード会社側の意図もあったのかもしれませんが、そういうところまで含めて面白い。フォークルは、ただヒット曲を歌ったグループではなく、「レコードという作品をどうつくるか」ということを考えていたグループだったと思います。
幻となった第2弾シングル「イムジン河」
――フォークルといえば、「イムジン河」も忘れられませんよね。
そうですね。「帰って来たヨッパライ」の次のシングルとして発売される予定だったのが「イムジン河」です。ところが、発売直前になって中止になったのです。その後、「悲しくてやりきれない」が第2弾として発売されました。
面白いのは、「イムジン河」と「悲しくてやりきれない」のジャケットを見ると、デザインがよく似ているんです。どちらにも「第二弾」という表示がある。だから、本当に直前で差し替えられたんだなということが分かります。録音も終わっていたし、ジャケットも印刷されていた。放送局やレコード店には宣伝用のプロモーション盤も配られていて、ラジオでも流れていた。
それが発売されなかったんです。
――なぜ発売中止になったのでしょうか?
当時はいろいろな説がありました。私自身も、最初から理由を知っていたわけではありません。後になって聞いた話や資料などから、自分なりに理解したのは、「イムジン河」という曲の作者の問題です。当初、日本では朝鮮半島の民謡のように受け取られていたけれど、実際には北朝鮮にいる作者がいることが分かった。それに対して、朝鮮総連側から作者・出典についてきちんと扱ってほしいという話が出て、レコード会社としても政治的、国際的な問題になることを恐れて発売を取りやめた、ということです。ただ、これは私が後から理解した話で、当時からいろいろな説がありました。だから、「これが唯一の理由だ」と断定するつもりはありません。

幻のレコードを聴いた少年時代
「イムジン河」の宣伝用レコードは、ほとんどが回収されたそうです。でも、一部は回収されずに残った。いわゆる「幻のレコード」になったわけです。
実は私も一度、プロモーション盤を聴いたことがあります。
バンド仲間のお兄さんが東芝に勤めていて、そこから借りたんです。しばらく持っていて、曲を聴きながらコピーしました。「イムジン河」だけではなく、B面の曲も含めて、どういう構成になっているのかを聴いて覚えた。そして自分たちでも録音してみたんです。4トラック2チャンネルのテープデッキを使って、残しておきました。そのテープが今も残っている可能性があります。ただ、長い年月が経っていますから、テープの状態や、再生できる機械があるかどうかは確認しないといけませんがね。当時は、まさか何十年後まで残っているとは思っていませんでした。
「自分たちでもレコードをつくってみたい」という初動
フォークルの活動を見ているうちに、当然のように「自分たちでもレコードをつくってみたい」と思うようになりました。でも、アマチュアですから、レコーディングスタジオなんて簡単には使えません。機材もない。録音の知識もない。
それでも、「やってみよう」と。
そこで、中野坂上の古いアパートの下宿で録音しました。隣には新婚のご夫婦が住んでいて、生活の音が壁越しに聞こえてくる。こちらが録音していると、向こうの音が入ってしまうこともある(笑)。そんな環境です。
でも、それが楽しかったんですよ。
どうやったら音を重ねられるか。どうすれば左右に音を振り分けられるか。フォークルのレコードを聴きながら、「こういうことをやっているんじゃないか」と想像して、自分たちでも試してみるということをね。

4トラックのテープデッキで「音を重ねる」
当時使っていたのは、4トラック2チャンネルのテープデッキです。別のテープデッキを再生しながら、マイクで拾って重ねたりもしました。今のようにパソコンで簡単に編集できる時代ではありません。失敗したら、またやり直す。
それでも、音を重ねていくことで「自分たちの作品」ができていく。
そうやって録音したものを、名古屋の「愛曲録音」にお願いして、少数ですがテスト盤までつくりました。ジャケットやレコードにきちんと曲名を印刷したようなものではありませんが。本当に、試しにつくったレコードです。でも、そのレコードは今も残っています。
「出来が悪いから、聴きたくない(笑)」
――今でも、そのテスト盤を聴くことはありますか?
いや、聴いていません(笑)。
幼稚ですから。出来も悪いし、聴きたくない。でも、捨てることはできないんです。「あの頃、こんなことをやっていた」という記録だから。写真を残しておくのと同じですよ。音そのものに価値があるというより、自分たちが何を考えて、何をしようとしていたかが残っている。そういう意味では、大切なレコードです。マスターテープも見つかったと聞いています。ただ、これは門外不出ですね(笑)。
「つくる」ということは、プロもアマも同じ
――専門的に録音を学んだわけではないんですよね。
そうです。私は大学では経済を勉強していましたから、録音技術を学校で学んだわけではありません。レコードを聴いて、自分でやってみて、失敗して、また考える。そういう繰り返しです。でも、今になって考えると、「作品をつくる」ということそのものは、アマチュアでもプロでも基本は同じなんじゃないかと思います。
何をやるかを決める。
どういう音にするか考える。
演奏する。録音する。形にする。
それを誰かに聴いてもらう。
それが「プロデュースする」ということなんだと思います。
フォークルとの出会いが「サウンド工房」につながった
振り返ってみると、フォークルに出会ったことは、単に好きな音楽がひとつ増えたという話ではありませんでした。「自分たちでもやっていいんだ」「レコードは、自分たちでもつくれるんだ」そう思わせてくれた。でも、実際に自分でやろうとすると、場所がない。機材がない。だから、後になって「そういうことができる場所をつくりたい」と思うようになったのだと思います。それが「サウンド工房」につながっていったんです。
もしフォークルに出会っていなかったら、サウンド工房はやっていなかったと思います。
バンドをやっていたかどうかまでは分かりませんけどね。
一年だけのプロ活動が残したもの
フォークルのプロとしての活動期間は、わずか1年でした。人気絶頂の中で、最初から決めていた契約期間を終えて解散する。最後のライブでは、客席から「やめないで」という声が上がったともいいます。普通なら、もっと続ければいいのにと思いますよね。でも、その1年間に彼らがやったことを考えると、ものすごく濃密だったんだと思います。
「帰って来たヨッパライ」の大ヒットがあり、「イムジン河」の発売中止という大きな出来事もあった。アマチュア時代には、自分たちでレコードをつくり、自分たちで売り、自分たちで世の中に届けていった。プロになれば、当然、レコード会社との関係も出てきます。自分たちだけでは決められないことも増えてくる。「イムジン河」は、そういう意味では、プロになったフォークルが初めて直面した大きな壁だったのかもしれません。
フォークルが残した「自分たちで音をつくる」精神
フォークルのレコードを、今あらためて聴いてみる。そこには、1960年代の音楽だけではなく、「自分たちで何かをつくろう」という若者たちのエネルギーが詰まっています。レコード会社に任せるのではなく、自分たちで録音し、自分たちで宣伝し、自分たちで売る。
楽譜がなければ、レコードを何度も聴いて耳で覚える。
機材がなければ、手元にあるもので工夫する。
スタジオがなければ、下宿の部屋で録音する。
竹島館長自身も、フォークルから受け取ったその精神を、自分の青春の中で実践していきました。そして、そこで生まれたテスト盤やマスターテープは、今も「その時代に、自分たちは何をしていたのか」を伝える記録として残っています。
レコードは、完成した音楽だけを保存するものではありません。
その音楽をつくった人たちの時間や、試行錯誤や、夢中になった瞬間までを、そっと閉じ込めている。竹島館長にとって、フォークルとの出会いは「音楽を聴く」という体験を、「自分も音楽をつくる」という体験へ変えてくれた出来事でした。そして、その原点は、後に「音楽をつくる人のための場所をつくりたい」という思いへとつながっていきます。
一枚のドーナツ盤から始まった物語は、半世紀以上を経た今も続いているのです。

